むがじん×文字=むがもん。ルールはたったひとつ、文字(テキスト)のみであること。
むがじんがお届けする、なんでもありの無差別級ショートコラム。
「ありがとう」は「借り」じゃない
みなさまこんにちは!
雪解けとともにじゅん瓦への電話も増え、季節はちゃんと巡るのに感情というか思考というかはなかなか巡らないものだなあと思っている多神和です。どうもどうも。
最近、わたくしのとても大切な存在であるじゅんさんが、よく怒る。
怒りっぽい人、というわけではないはず。
むしろ屋根のお仕事においては本当に誠実で、丁寧で、やると決めたら徹底する人。
だからこそ、不思議だったんです。
そんな人が、なぜこんなふうに憤るのかしらと。
そこで、ふと思った。
怒っているのは、感謝が足りないからじゃない。
感謝が、流れていないのかもしれない。
ありがとうが「単発」だと、感謝は清算になる
ありがとうを、その場の完了にしてしまうと、こうなる。
今やってくれたから言う。その場で終わる。はい、完了。
これはこれで一見、健全。
でも、そこに過去も未来もつながっていないと、感謝が循環しない。
感謝が循環する、ということ
感謝が循環するというのは、大きなことじゃなくていいの。
たとえば、
あのとき、忙しいのに手伝ってくれた。
あのとき、黙って話を聞いてくれた。
あのとき、やり方を教えてくれた。
そのおかげで、今の自分がある。そのことを覚えている。
そして今、自分が誰かを手伝うとき、「してあげている」じゃなくて、「あのときの続き」と思える。
それが循環。
あの人に直接返さなくてもいい。
あの人から直接返ってこなくてもいい。
あのとき受け取ったものが、別の場所で誰かを助ける。
それでいいじゃんね。
感謝が循環しないとどうなるか
循環しないものは、溜まる。溜まったものは、圧になる。
じゃあ、感謝が循環しないとどうなるか。
何か自分がする側になったある日、こう出る。
「やってあげたのに。」
その瞬間、「ありがとう」の請求書を発行してしまう。
でも、本当は違う。
「ありがとう」は「借り」じゃない。
ありがとうと言いながら、借りを背負っていませんか?
ここで、ちょっとだけ自分に聞いてみてほしいんです。
ありがとうと言いながら、「これ、ちゃんと返さなきゃ」って思ったこと、ありませんか?
すぐお礼しなきゃ。
同じくらいの何かを返さなきゃ。
このままだと借りっぱなしみたいで落ち着かない。
……そんな感謝は忙しい。
でもそれ、もしかしたら感謝じゃなくて清算かもしれない。
ご恩は、その場で直接返すものじゃない。
受け取って、自分の中であたためて、どこかで誰かに渡せばいい。
全部その場で帳尻を合わせなくていい。
受け取れてるかな、という問い
人は不思議なもので、自分がやっていることはよく見えるのに、してもらったことは「通常運転」になりがちです。
昨日助けてもらったことは、今日にはもう当たり前になる。
そしていざ自分がやる番になると、「自分がやっている」だけが前に出る。
そこに悪意はないのかもしれない。
でも、受け取ったものがちゃんと心に残っていないと、やる側に回った瞬間に重くなる。
重いと、人はこう思う。
「やってやっている。」
でもそれは、誰かから受け取った流れの続きかもしれないじゃない?
受け取れていると、軽い。
受け取れていないと、重い。
怒りは、重さのサインかもしれない。
だから、責める前にひとつだけ。
受け取れてるかな。
してもらったから、じゃなくて
「してもらったからする」だと、そこに義務が生まれる。
「したいからする」なら、そこに喜びが生まれる。
前者は清算。後者は循環。
ありがとうが単発になると、関係は「貸し借り」になる。ありがとうが流れになると、関係は「信頼」になる。
わたくしも、単発だった頃がある
わたくしも昔は、正義を振りかざしてはキレておりました。
「それは違うでしょう」とか「筋が通ってないでしょう」とか。
今思えばあれは、未回収のありがとうでした。
認めてほしかった。わかってほしかった。流れなかった感謝が、正しさの顔をして出ていただけ。
怒りは悪じゃない。詰まり。
感謝が止まると、人は苦しい。
流れているとき、人は穏やか。
変わらなくてもいい。
「してもらったから」ではなく「したいから」。
それだけで、関係はずいぶん軽くなる。
ありがとうは、借りじゃない。
流れなんだよねぇ。








