おかしのおかしな話(11)「戸出ジェラート」

雨のアイス

こんな土砂降りの日に、ジェラートを食べた。

2024年の8月17日、今日の富山県西部は突然の大雨に見舞われ、厚く垂れこめた薄灰色の雲からは、ひっきりなしに大粒の水滴が流れ落ちている。

そんな中、僕は古い商店街の一角にあるジェラート屋へと足早にとびこんだ。小さな店内のガラスケースには、色とりどりに並んだジェラート。

たとえ頭からべったりと濡れそぼっていようとも、この光景には心が躍る。小さい頃に見た、母や祖母たちのアクセサリー入れ。そのクリスタライズされた記憶と、この景色はどこかで繋がっているようだ。

晩夏のアイス

穂村弘という歌人がいるが、その人にこんな歌がある。

母の顔を囲んだアイスクリームらが天使にかわる炎のなかで

「世界中が夕焼け」という本の中で穂村自身が述べたことによると、生前、穂村の母は病気により好物のアイスクリームを食べることができなかったという。それで、火葬の際には棺の中にアイスクリームを入れたのだとか。

斎場の重い扉の奥で、炎に包まれる種々のアイスクリーム。その光景を思い浮かべると、なんだか一つの夢の具現化のようだ。もちろん、アイスが入ったところで火は火であり、さして燃え方が変わるということも無いのだろう。

けれども、人の祈りというのはそういうことではない。肉体の最後の在り方を人間の人生と結びつけ、世界の果てへと思いを馳せる。祈りというのは、例えばそういうところにあるのだと思う。

最後のアイス

実を言うと、僕の近しい親類も、人生の最後にはアイスと共にあった。

彼の死んだ日の朝、自分たちが遺族となったとも知らぬ遺族たちは、サーティワンアイスクリームを食べた痕跡を発見した。

やがて老境へさしかかろうという彼が、大好きだったというアイスクリーム。それを一体どんな気持ちで食して逝ったのか。彼が死んでしまったことと、何かしら関係を見出してもいいのだろうか。

わからないことだらけだけども、その人生の終わる間際に甘いアイスクリームを食してくれたということは、少なくとも僕にとって一種の救いであるように思われる。

そして、もしも欲張っていいのだとしたら、彼自身にとっても何かしらの救いであって欲しい。

濡れたアイス

ひどい大雨の中だったので、店先から車に戻るまでの間にも、雨粒に打たれたジェラートが溶けかけてしまった。ダッシュボードの向こうでは、未だにぬるい雨水が次々と流れ落ちていく。

このそうぞうしい沈黙に閉ざされながら冷たく甘いジェラートを味わうときには、またこんな日を迎えたいと思ったりもする。

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