mugazine×文字=むがもん。
ルールはたったひとつ、文字のみであること。
転勤族の娘に生まれて。
私の父は転勤族だった。
俗に、会社員や公務員で、短期間で次々と勤務地が変わる人。
父の行く所なら何処であろうとついて行くという母の信念もあり、私は幼稚園で1回、小学校で2回、中学校で1回、高校で1回、転校を経験した。
2〜3年毎の引越しも友人との別れも、これといって悲しんだ覚えは無い。少しだけ感傷的になった瞬間はあったが、あれは一種のパフォーマンスだったのだろうと思う。
〝親の都合に振り回されるかわいそうな子ども〟を演じてみたかったのだ。
「母校がたくさんあって各地に友人がいる」というのが、転勤族の子どもへのポジティブなイメージだ。私も幸いなことに、転校先で友達ができないという状況に陥ることは一度もなかった。現在も各地の友人(年々、数は減っているが…)と年賀状のやりとりをしている。
だが、引越しと転校を繰り返したことによって、土地と友人への執着はかなり薄い人間に育ってしまった。「地元」や「幼馴染」という言葉に淡い憧れは抱くものの、それらに縛られている様をマンガやドラマなどで目にすると「しょーもな」とも思ってしまうのである。自分が生まれ育った土地を愛する心を理解は出来ても、土地ごときに固執しすぎるのは愚かだとさえ感じてしまうのだ。
私は、転勤族の娘として育まれたこの思考が悪いものだとはこれっぽっちも思っていない。むしろ、自分の強みだと信じている。
土地や環境の変化に順応する力は人よりあると思っているし、どんな場所でもそれなりに生きていける自信もある。家族が一緒なら怖いものなしだ。
「地元」も「幼馴染」も、私の人生には特別必要ない。
そんな私には、転勤族の娘に生まれたことで身についたと思われる困った習性がある。物心ついた頃から親元を離れるまで2〜3年毎に環境が変わっていたせいか、「環境が変化しない」ことに耐えられないのだ。
高校卒業後すぐに親元を離れた私は現在までに5回引越しをしている。そして、勤務先は9回変わっている。
引越しを理由に勤務先が変わるのはもちろんだが、そうでない場合でも3年くらい経つと「もうここにいるのヤダな」となってしまい自分から辞めてしまうのだ。仕事内容や人間関係に関わらず、〝その場所〟に落ち着いていることに耐えられなくなる。
「転勤族の血が騒ぐ」ってやつなのだろうか?
前置きが長くなったが、私は来月、人生通算11回目の引越しをする。
今回の引越しは新しい家族を迎える為の引越しだ。新しい土地での暮らしも含め、すべてにわくわくしている。
大人になってからの引越しの良い点は、友達を作る必要が無いことにある。もちろん、近所に友達が欲しい場合は頑張ればいい。私は、いらないから頑張らない。ご近所さんとは挨拶さえ交わしていれば、それでいい。
ひきこもり主婦だから職探しもしなくていいし、なんて幸せな引越しだろう。
明日から本格的な引越し準備がはじまる。
引越しに不慣れな人にとっては苦行でしかない荷造りも、転勤族の娘に生まれた私には朝飯前である。昔から「引越し=大掃除」という感覚なのだ。
引越しは自分にとっての「要・不要」を選別できる良い機会だと思う。物質はもちろん、土地や人間、思い出も選別する。
いらないものは捨てていく。これからの自分に必要なものだけを持っていく。身軽になりすぎて不安になるかもしれないが、どうせすぐに増えるのだから心配しなくていい。増えなかったら増えなかったで、次の引っ越しが楽にできる。
あぁ、引越しが楽しみだ。