おもいで
幼い頃の、なんだかふあふあした、おぼろげな記憶。いったいどうしてそんな所にいたのかもうさだかではないけれど、僕はお寺の縁側に居た。
気候のいい晴れた日で、たぶん夏だったと思う。真夏はクーラーをかけて過ごすという生活が、まだ一般的じゃなかったくらい昔の頃だ。
……いや、そもそもほんとに夏だったかしら?輪郭を失うほど以前の記憶というものは、特に小さい頃のそれはみんな夏の日のことのように思われてくる。ともかく、そんな曖昧な思い出の中の話。
あこがれ
もしかしたらお供え物だったのかもしれない。立派な足つきの菓子器に乗って、色とりどりのものがかがやいていた。
両端がくるくると巻かれた薄いプラスチックの包みにくるまれていて、それがよりいっそう光の屈折を複雑にきらめかせていた。窓越しにはいる太陽の光にてらされて、例えるなら、そう、ちょうどフローライトみたいな感じ。
その他のことはほとんど覚えていないが、たぶん、何かの折に祖母に連れられて来たのだろう。あれは実家の菩提寺だったように思う。
どうしてその光景ばかりはっきりと覚えているのか。僕自身それは想像に任せるしかないが、当時の僕の目には、そのお菓子がそれだけ新鮮で魅力的に映ったのだろう。
そして、たぶん味も衝撃的だった。べったりと甘いばかりで、舌にまとわりつくような、言うなれば随分と「古臭い」味だった。正直、美味しくないというのがそのときの感想であった。
おにごっこ
「ぶどうふぁふぁ」もそんな甘ったるいゼリー菓子の類である。
大袋にたくさん入った、真四角のかわいいお菓子。こういうのを食べるたびにもう少し酸味だとか、しゃれた風味があってもいいんじゃないかと思うのだが、そうならないが魅力なのだ。
ただ甘い、大同小異の味わい。見た目ほどのわくわくは入っておらず、一時間後には「食べたには食べたんだけど、どんな味だったか……」と言っている。それでまた口に運ぶこととなる。
やはり、どことなく茫洋とした、掴み所のない味だ。まるで遠い昔の出来事を追憶しているような、そんな感触がする。
きらめき
追憶の感覚というのは、まるで金魚すくいのようだと思う。ゆらぐ水面ごしにのぞきこんで、規則的なようでいながらもう少しのところでかわされてしまう。
やっと捕まえたと思ったら、手に残っているのはふやけて穴のあいたポイだけだ。桶にたくさん泳ぎ回っていた小魚たちは、あの後どうなってしまったのだろう?
僕は、小さい頃にあこがれた数々の事物を、今どれだけ思い出すことができるだろうか。そんな風なことを考えながら逆光越しのゼリー菓子を眺める。