悟りを開きたいみなさまこんにちは。
屋根と宇宙のあいだで……といいつつ今日も屋内でPCに向かっております、わたくし多神和でございます。どうもどうも。
「悟りを開いた」という言葉を、先日目にしました。
それはある人のSNSの投稿で「社会は幻想」「自分は悟りを開いた」「すべてに意味はない」というような言葉が並んでいました。
「悟りを開いた」と誰かが語るとき、わたくしの中にはひとつの静かな思いが浮かびます。
それを言葉にすることは、本当に悟りに近いの?
禅における「悟り」は静かで言葉にならない

禅の世界では「悟り」を言葉にした瞬間、それはもはや「悟りそのもの」ではなくなるとされます。
たとえば道元禅師はこう述べました。
「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。」
「自己を忘れること」が仏道の入り口。
つまり「わたしが悟った」という自己の主張が入った瞬間、すでにその地点から離れてしまっているということです。
言葉は触れたとたんにこぼれていく

哲学者ヴィトゲンシュタイン(この名前が覚えられない!)の言葉を、わたくしはいつだか知りました。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
語った時点で、それはすでに「語りうる」世界に落ちている。それが本質から離れてしまっているという、ことばの限界の話です。
これは、インド哲学ウパデーシャサーハスリーの中で語られる「そうではない、そうではない(ネーティ・ネーティ)」とも響き合います。
あれでもない、これでもない。否定を通じてしか辿り着けない、ことばにならない場所がある。
それが真理と呼ばれるもののもう一つの顔なのだと感じます。
虚無と悟りを混同してしまう現代

わたくしが見た投稿には「社会は幻想」「全てが無意味」というような言葉が並んでいました。けれど、それは「悟り」ではなく、もしかすると「虚無」に近いのでは?と感じました。
悟りと虚無は、似て非なるものです。
仏教における「空(くう)」は「意味がない」ということではなく、「固定的な意味づけから自由になる」ということ。
その先には、むしろ深い慈悲と共感が含まれている。
わたくしも、人生で何度か「すべてが無意味」に思えた夜を過ごしたことがあります。けれどその中には「意味を手放すことで見えてくる光」が確かにありました。
わたくしが知っている「ほんとうに近い人」たちは、何も言わなかった

これまでの人生で、わたくしが「この人は澄んでいる」と感じた人たちは、「悟り」について語ることは、ありませんでした。
むしろ「なんでもない日々」のなかに、微笑みと気配をにじませていたのです。
ただ隣にいるだけで、こちらの呼吸が整ってくるような。言葉がなくても通じ合うような。
「何かを手放したあとの静けさ」が、その人からただよっていました。
美しい、と表現したくなるような在り方でした。
「わたし、悟りました」と言った瞬間、それはもう別のものになる
もし誰かが突然「わたし、今、真理に到達しました」と語ったとしたら、その時点で、真理はスッとどこかへ行ってしまうような気がするのです。
それはまるで、猫を膝に乗せようとした瞬間に逃げられる、風をつかまえようとした瞬間にすり抜けられるみたいな。
そういう「かたちにならない在り方」が、たしかにこの世界にはある。
まとめ「そうではない」を重ねてたどり着く、ことばにならない場所へ

悟りは誰かに証明するものではないし、声高に語るものでもありません。
むしろ「語らないこと」のなかに、そっとにじむもの。言葉の周囲に、その存在に、ゆっくり漂ってくるもの。
そしてそれを見た誰かの心がふっとゆるまっていく。そして、「あぁ、わたしもそのようにありたい」と思わせてくれる。
それこそが、悟りと呼ぶにふさわしい気配のような気がします。
だからわたくしは今日もいつもの行法と瞑想をして「そうではない、そうではない」とつぶやくことから始めてみようと思います。