人はパンのみで生きるに非ず
人はパンのみで生きるに非ず。じゃあ、人は何を食べて生きてるんだろう。その答えはコンテキストに依存して無数にあるんだろうけれども、今はこう言っておこうと思う。「人はイメージを食べて生きる動物だ」。
ペットボトルのコーラを買ってきて庭先に座って飲むのと、家に入ってグラスに注いで飲むのとでは、リラックスの程度が違うもの。万一いきなりステーキが高級フレンチ店で出されたとして、それと気付ける人はどれだけいるだろうか。
目の前のそれが何であるかよりも、それがどうやって生まれ、どこからやってきてどこにどうあるのか。更に言うならそれらをどう認識しているかの方が我々にとってよほど大事。ということは実際よくある。ジェリーベリーもそんなお菓子だ。
まぼろしの味
この文章を書くに当たって、ジェリーベリーの小袋をひとつ空けてみた。丁寧にも大袋には味と見かけの対照表がついていて、それを見ながらふむふむと言って食べてみた。そうやってみると違うと言えば違うのだけど、気のせいと言われればそんな気もするような……というか途中でどうでもよくなって、いつもみたいにまとめて口に放り込んでしまった。
けれども、だからその味が無価値なんてことは決してない。青とか赤とか緑とか、なんかよくわからない斑模様とか、それらを並べて見比べながら食べていく、そのわくわくは色褪せない。僕たちはお腹を満たすために食べているんじゃない。人として生きるために食べているんだ。
将来の夢
いつかやりたいことリストを作るなら、そこに1つ書きたいことがある。ジェリーベリーを死ぬほど買って、ジェリーのお風呂に入りたい。無論だが、そんなことをしても体はきれいにならない。あったまることも無い。というか、後で大量のジェリービーンズを泣きながら食べることになると思う。
しかしながら、それは大変に価値あることだ。僕はその馬鹿げた行為によって、「誰も入ったことのない甘くて極彩色の風呂」を体験し、「一生分ほどのジェリービーンズに埋もれた自分」を獲得することができる。それらの行為とその感覚は、お金で引き換えることの敵わない夢であり、憧れの対象だ。
正直者の嘘
正直に味だけのことを言うならば、ジェリーベリーはねたねたするし、甘いばかりで全体的にちょっとぼけていると思う。けれども、ジェリーベリーはそうではないのだ。いつまでもかわゆい象徴として、捨てきれぬ憧れの対象として、もの自身を超えたところにこのお菓子は存在している。