東京銘菓
むがじん上でも活躍している写真家のおみそ氏に、東京土産をいただいた。うつくしくあおき青海波の紙箱。東京銘菓「ひよ子」である。
しかもこれはただのひよ子ではない。「東京限定 特別仕立て 塩ひよ子」だ。
甘い。美味しい。甘いものはだいたい美味しいけれど、これは特別に美味しい。
ふつうのひよ子とは違って赤いあんが入っているが、それがかすかな塩味と活かしあってよいアクセントとなっている。おおまかに言えばどこにでもあるような饅頭なのだけれど、これは美味しいと思わされる。なんだかほっとする。なぜだろう?
人生とひよ子
思えば、ひよ子との付き合いはかなり長い。幼児期まで遡ることができるのは、ほとんど間違いない。そしてひよ子そのものの歴史は、32年と少しの僕の生涯よりもずいぶんと長いはずだ。
そんな昔から、それも個人的にも身近にあったひよ子なのだが、どうしてこんなに美味しく感じるのかはっきり言語化したことは無いように思う。
小さい頃の僕は、あの黄色い六角形の箱に並んだひよ子を見て心おどらせていたはずだ。単純でいながら愛嬌をたたえた表情、そして佇まい。
ほっとする安心感をもちながらも、これがひよ子だと思わせてくれる。そのとき何をしていたかはもう記憶に無いが、そのときのなんとやなしの幸福感のようなものは、未だに感触の思い出として残っている。それくらい親しみ深いひよ子であるが、はっきりとここが魅力と語るのは、未だ難しい。
デザイナーズひよ子
形については、割といくらでも自信を持って言える。やわらかくて力加減を間違えるとたちまち傷ついてしまいそうなかたまりが、半透明の薄い紙に包まれている。
まるで、初心な娘の肌着を見るようだ。それを最初はそっと剥こうとするのだが、そのうち焦れったくなって破り去ってしまう。そうして現れるのは、笑っているような、あるいは泣きそうになっているような、何か物言いたげであるのにどうとでも解釈できる表情のひよ子だ。
これほど簡素にデフォルメされているのに、間違いなくひよ子に見えるというのはやはり優秀なデザインである。
そのひよ子と見つめ合い、あるいは一方的な視線を注ぐ時間を経て、やおら口へと運ぶ。これは、食べ物である以上の決められた宿命というものだ。
頭から行くにしても、しっぽから行くにしても、残されたかたわれは中身の断面を露出させて、無残な姿を晒している。予め定められたバイオレンス。避け難いサディズム。こういう昏い通奏低音の上にこそ、豊かな体験が育まれるのだろう。
思い出の味
味については、いや、あまり何でもはっきりとさせるのはやめておこう。
幼い頃のほんわかとした思い出は、そんなことが本当にあったのかする判然としないままに、曖昧なままにしておきたい。そういう考えに至ることが恥ずかしながら未だにある。