自分で自分の価値を下げていたことに気づいた話

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自分で自分の価値を下げていたことに気づいた話

写真の仕事を始めたのは20歳の頃。

宝塚が好きでこの世界に飛び込んで、初めての撮影は旅行誌のるるぶだった。早朝に池袋駅前から出る高速バスに乗り、たった一人で群馬県富岡市へ行ったことを覚えている。

それからは右も左も分からないけど、とにかく無我夢中で旅行誌や演劇誌、WEBなどを中心に様々な写真の仕事を経験してきた。

経験した結果、自分の中に生まれたのは「困った時に思い出してもらえるカメラマン」という自分像だったのかもしれない。

大体の仕事はいきなりやってくる。時間が無くて、予算が無くて、誰々がつかまらなくて等々。

そんな時にいつもスケジュールが空いていて、大体何でもやれるのが私だった。誰も私の写真なんて見ずに連絡をしてくる。

紹介してくれた人たちが自分よりも10年以上キャリアのある人たちだから、信用で頂くお仕事ばかりになるのだ。有難い反面、自分の価値は分からないまま。

それでも写真の仕事は何でも好きだったし、私の師匠が何でも撮れるオールマイティーなカメラマンを自負していたから、当然のように師匠の背中を追っていた。

だけど師匠にはいつも「俺みたいにはなるな」と言われていた。

「君は写真で食える。だけど俺とは違う道を行け。もっとすごい写真家になれ」

よく覚えていないけど、大体そんなことを師匠は言っていた。

気付けば、あれから15年が経った。私は師匠と同じように大体何でも撮れるカメラマンにはなったのかもしれないけれど、師匠とは違う道を行きつつあると最近は思えるようになった。

富山県高岡市に移住した時、私はこれまでのカメラマンとしての生き方を半分捨ててきた。のらりくらりと「何となく写真の仕事をやっている人」を辞めるためにここに来たと思っている。

写真の仕事は好きだけど、報酬額が増えるほど緊張や義務感に苛まれて向いていない仕事だと思うようになった。

向いていないと思っていた仕事は、確実に私を成長させてくれていた。それでも、「困った時に思い出してもらえるカメラマン」という自分にかけた呪いは解けなかった。

有難いことに、高岡に移住してからも東京の友人やクライアントからは連絡を頂くことがある。声をかけてくれたことが嬉しいから、多少の無理をしても撮影の仕事は断らないようにしている。

でも、これまでのように写真の仕事をすることには抵抗があった。これまでは東京に居て、やりたい仕事も特に無いし暇だったから良かったけれど、今は違う。

今日もまたお世話になっているクライアントから連絡を頂いたけれど、雪の影響もあるし交通費を鑑みてもらいたいと正直に伝えた。都内には私の知人や友人で私よりも腕の良いカメラマンが沢山いるから、紹介しようと思っていた。

その時、スマホの文字を打つ手が止まる。私は自分に対して、自分でなくても良いと思っている。やりたいかどうかというよりも、自分にその価値は無いと思っていることに気が付いてしまった。

これまではその自分像を肯定すらしていたけれど、もうできなくなっていた。

この人は、自分を選んでくれて依頼されているのだ。私に連絡をくださっているのだ。そう思おうとしていた。

だって、その方は結構なお偉いさんだし、腕の良いカメラマンなんてたくさん知っているだろうに。わざわざ私に声をかけなくてもいいはずなのだ。

実はその方は私がまだ23歳の頃、某社のオフィシャルカメラマンとして撮影した写真を気に入ってくれて声をかけてくれた人だった。

私の写真に価値を感じてくれて、直接うちと仕事をしないかと誘ってくれた唯一の人だ。

いつしかそんな人も信じられなくなっていた。自分で自分の価値を決めてはいけない。ましてや、低く見積もるなんてもっての外だ。

色々と考えなければならないことはあるけれど、そもそも打診の段階なのでどうなるかも分からないけれど、やる意思はお伝えした。

ちなみに前回、数年前にやったのと同じ案件だった。前回よりもどこをどう改善したいかが頭の中に浮かんでいる。やるなら、やる。

前よりも良い写真を撮れるぞ、今の私なら!

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