至福が気になるお年頃のみなさまこんにちは。至福は最初からここにあります。あまりに普通に存在しているので気がつけないほどに。
「何もない」と「全てある」が同時にそこにある世界になってます多神和です、どうもどうも。
ありがたいことに、ひとりごとのような「雷雨のあと、目覚めた」を読んでくださり、コメントもいただきましたので、公開交換日記のようにこちらで補足記事を書かせていただきますね。楽しい。ありがとうございます。
クリシュナのいう「行為の放擲」とは

バガヴァッド・ギーターでクリシュナが言っている「行為の放擲」というのは、「行為そのものの放擲」ではなく、「行為を自分がしている」という思いと「その行為による結果」の放擲のこと。
つまり、「おいしいものを食べてしあわせになりたい」という思考があった時に、「おいしいものを食べたい」という思考そのものの発生源が自分自身ではなく、かみさま由来であること。
そして「おいしいものを食べる」という行為そのものも、「自分がおいしいものを食べる」のではなく、「かみさまがこの身体を使っておいしいものを食べている」ということ。
さらに、そのおいしいものを食べたことによってしあわせになれるかどうかの結果を期待する必要はない。
まあつまりそれが「かみさまが行為している」っていうことなんだけど、これが すこーん! とわかった。
思考ではなく、体験としての理解
頭で理解してわかったんじゃなく……たぶんこれを言葉で表現しようとすればするほど、そこから遠ざかっていくことになるんだけど、あえて挑んでみる。
まだそこに「自分が」という思いがあるうちはギーターに書いてあることは頭でしか理解ができない。
だからといって、完全に「自分が」がなくならないと真に理解できないのかというと、そうでもない。
水の流れがある一定の勾配もしくは水量になったら勝手に流れていくみたいに、理解度が「ある一定」に達したら、そこから先はじわじわと理解が深まっていくような気がする。
わたくしがその「ある一定」には達したのかもしれない。
すこーん!が起きた瞬間

今まではなんだかんだ「自分がしている」と思っていたあらゆる行為を、「かみさまがなさっているのを観察しているだけの自分」になったことによって、すこーん!が起きた。
それは「瞑想したくてもなかなか出来ない自分」がいることと、それによってかみさまを思い続けることが出来たという、クリシュナを憎み続けたことによってクリシュナの元にいけたシシュパーラのようなものだった。
(※シシュパーラ:クリシュナのことが大嫌い。100回目の憎しみで、クリシュナに殺され解放されてクリシュナの元にいけた。)
わたくしはかみさまを思いすぎるが故に、あれこれと手を出してみたり出そうとしてみたものの、それでは辿り着けず、悶々とする思いをRebootし続けることによって、「自分」という思いが薄まり続けて「ある一定」に達したことによってたどり着いたのかもしれない。
Reboot™︎とは、かみさまとの対話の中で多神和に授けられた、「二元をほどいて本質へ戻るための内観ワーク」です。
世界中に満ちていた気づき
今までは頭で理解していた「かみさまが行為している」ということが、勝手に細胞全てに染み渡ったというか、それすら通り越して世界中に満ちていた。
「体感した」というレベルですらなかった。
最初からそうだったってことを知った。
そこで感じたいわゆる「至福」という状態であろうそれは、ごくごく日常となんら変わらないものだった。
世界は何も変わらなかったし、ずっと最初からそこにあったっていうことに気がついただけだったんだけど、その瞬間には、歓喜の涙が溢れていたというわけ。
それまではあらゆる行為をかみさまに捧げてた。だけど、かみさまが多神和を通じてなさってるっていうことがわかったから「捧げる」ことすら必要なくなったのでした。
もし「捧げる」をしたとしてもかみさまがなさってるだけではあるんだけど。
ということがわかった状態での「行為の放擲」がクリシュナの言ってた「行為の放擲」なんだろうね。

















