「生きる理由」を手放した
はるじが肉体の衣を脱いでからは毎日「死にたくもないけど生きていたくもない朝」を迎えていた。
はるじが肉体の衣を脱いだことは「パートナーとの死別」なんていう言葉で表現できるものじゃなく、もっと複雑なような、実はものすごくシンプルなような気がするけど、まだ「それ」は見つからない。
あれからはるじは何度か夢に出てきたけど、目が覚めたらがっかりするだけなのでもう夢には出てこなくてもいいのにって思う。こないだまですぐそこにいたはるじが夢になってしまった。へんなの。
そんな今は「はるじの美しい滑りを継承する」っていうことと、「クリシュナさんへのバクティ(信愛)」のためにどうにかこうにか生きてるけど、正直いつ死んでもいいって気持ちは相変わらず底に沈んだまま。
死生観
いつ死んでもいいっていう気持ちが底に沈んでるのは今に始まった話じゃなく。いつ死んでもいいというかふんわりと「死にたい」という思いは子供の頃からずっとあるものなのでたぶんそういう性質。ありがちな「小腹が空いたな」的な感覚で「死にたい」って思うこともしばしば。
物心ついた頃からかみさまのことを強く感じながらも死にたいって強く思うことは何度もあったし、実行しかけたこともあったけど死ねることも死にかけることもなく、なんだかんだ今まで生きてきちゃってる。
高速道路を走ってて、目の前を走る車の荷台からタイヤが転がってきたときですら何事もなく生きてたし、はるじの九死に一生みたいな話もいろいろ聞いたのに、そうかと思いきやはるじの膵臓癌がわかってから2週間であっさり…みたいなことがあると「生も死も人間がどうこうできるもんじゃないな」って思い知らされた。
子供の頃から「生きる」ということがよくわからないまま生きてるって思ってたし、はるじが肉体の衣を脱いでしまった今も時々わからなくなる。
ただ、これまでの人生の中で「自ら命を断つということはしてはいけないんだろうなあ」とうっすら感じてはいて、そのために生きる理由を探しながらというか、生きる理由を探すために生きているのかもしれない。
「一緒」が生きる理由
これまでは生きる理由ってよくわからないまま生きていた。はるじと一緒になってからは「生きる理由」なんてことも考えないほどに生きる理由はいっぱいあった。
一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に寝て、一緒に歯磨きをして、一緒にランデブー行って、一緒にスノボして、一緒にものづくりをして、一緒にいろんな景色を見て…とにかく一緒にあれこれやることが全部生きる理由だったんじゃないかな。
でも、はるじが肉体の衣を脱いじゃってからはそれらが一気に消えちゃった。
「一緒」を手放す
こうしてはるじどころか自分までもが抜け殻になりつつも、スノボとバクティでギリギリ生きている日々を過ごしていくうち、いかに「一緒」であることに執着していたか…ということにやっと気がついた。肉体の衣を脱いだはるじはいつでも側にいるどころか、すでに一体化してるというのに。
少し前までは「かなり一体化」という表現だったけど、今はそれよりもさらに一体化してる感じになっていた。(でもそれについての詳しいお話はまた別の機会に)
「かなり」よりも一体化してるというのに、すでに一体化してるはるじをわざわざひっぺがして分離させて、それからあえて側において「わーい!一緒だ〜!」ってやろうとしてただなんて。
とはいえ、自分の中ではそれを求めてしまってたからしょうがない。せっかく一体化してるっていうのにまた分離させようとしてた。ばかばかほりたみわのばか。
こんなことをしていても、完全に無意味どころかむしろマイナスなので【「一緒」という思い】を手放すことにした。(手放し方についても…そろそろ「抽出法」についてご説明していきますね)
そしてどうなったか
手放した次の朝。それなりに早く目が覚めたし、ヨガも筋トレもお休みの日だったので、登山に行くことにした。
どの山に登るか悩んだけど、そういうときはあみだくじって決めてる。いくつか候補を出して決まったのは城ヶ平山。
はるじと八重ちゃんと5月に行った山だった。はるじが最後に登った山。
この頃すでに体力低下は感じていて、今までみたいな山に登るのは難しいねっていうことで選んだかなりやさしめの山。
たしかに、今のほりたみわもゴリラ化してきたとはいえ、富山での一人登山は初めてだし、体力も落ちてるような気がしないでもないし、思い出の山っていう意味でもここが最適。さすがあみだくじ。
肉体的にはぼっち登山だけど、はるじはやっぱり一体化してて、時々ほりたみわがはるじみたいになったり、はるじと会話したりしながら登頂して無事下山。いろんなスノボの話もできた。
写真にはるじが写らないのはこれから先一生のことだからそろそろ慣れるしかないし、これから先はそんなことよりもはるじと一体化してることの喜びがもっともっと大きくなっていくんだろうなって思えた。
さらなる一体感
下山してからは近くの大岩山日石寺に。
ここははるじとの不思議な思い出のつまってる場所。でもここもいつもと違った。はるじとの一体感を感じずにはいられない空気。
いつもとまた違う心地よさに思わずお堂の中にずっと座っていた。はるじと一体化してきてることで、ここのエネルギーとも近い状態だった。やっぱりはるじはすごい。
もちろん、お寺を出てからも一体感は減ることがなく、帰宅後もずっとそれは続いてる。
そしてさらに翌日。
今朝も目覚めてから瞑想をしながらはるじとの一体であることを感じて、鏡を見てはるじの身体に近付いてることを確認して、今日も筋トレをしてからミロテイン(プレーンプロテインにミロを入れたもの…勝手に命名)を飲む。
「一緒」を手放したことで、「死にたくもないけど生きていたくもない朝」から脱却して、「死にたくもないけど生きていたくもない…とも思わない朝」がきて、そして「はるじとの一体感を見つける日々」が始まった。