「わ」が観ている
ある朝の瞑想中、わたくしはふいに気づきました。
「わたくし(多神和)」が何かをしていると思っていたのに、ほんとうは「わ」が「わたくし(多神和)」を観察していたのだ、と。
「わ」は、思考でも、感情でも、身体でもありません。もっと静かで、判断をせず、ただただ観ている存在です。
それはまるで犬が飼い主に与えられたものしか口にできないように、「多神和」という存在も、「わ」に与えられた衝動や言葉、インスピレーションをもとにしか動けないのだと気づいた瞬間でした。
その発見は、驚きというよりは、静かに深く「そうだったのか」と沁みる感覚でした。
「わ」が観ていて、「多神和」が動いている。
「多神和」という器を通じて、「わ」がこの世界に触れている。
そんなふうにすべてがひっくり返るようで、でもどこか懐かしい理解でもありました。
ちまきさんに宿る「わ」のまなざし

新しく描いていたちまきさんの作品には、まさにその「わ」の気配が宿っていたのかもしれません。
舌を出して笑っているような無邪気な顔つきなのに、観る人の内側をまっすぐ見つめるような、鋭くて静かな眼差し。
この子は本来、もう一つの作品と対になる予定でしたが、片割れのままお迎えが決まりました。でもそれでよかったのだと思います。
作品の名前すらありませんでしたが、片割れであっても完全で、すでにそこに気づきが宿っていたから。
「わ」が描き、「多神和」が動く
新しいちまきさんを描いていた時間、わたくしの意識はどこかぼんやりしていて、色を選ぶのも筆を動かすのも、自分で決めているようで、そうではないような感覚がありました。
多神和が筆を持っているけれど、描いていたのは「わ」だったんでしょうね。そうはっきりと理解した瞬間、創造という営みの構造が腑に落ちたのです。
「わ」は手を持ちません。だからこそ「多神和」が必要なのです。
「わ」が動かし、「多神和」が描く。そして、そのわたくし「多神和」もまた、「わ」によって観察されている。
それは以前も感じていた感覚ではあったのですが、「わ」の存在を理解していなかったような気がします。
すべての「わ」がつながっている
この気づきの中で、さらに深く見えてきたものがありました。
それは、わたくしだけでなく、すべての人の中に「わ」があるということ。
そして、そのすべての「わ」たちは、ばらばらに存在しているわけではなく、じつは全部でひとつの「神」である、ということです。
気づけば「多神和(たみわ)」という名前そのものが、この構造をそのまま体現しているんじゃないかと思ったりもしました。
たくさんの神(意識、観察者)がいて、それらが和している。「多神和」とはまさに、その在り方のことだったのかと。
けれど不思議なのは、わたくしがこの名前を選んだとき、まだその意味には気づいていなかったということ。
あとから、「ああ、だから多神和だったのか」と、まるで自分でつけた名前の意味を、「わ」を通してようやく理解したような感覚がありました。
いいえ、「わ」がつけた名前だったんでしょうね。
すべてが整っていた。すべてが、はじめから決まっていた。
そう思えるほどに、静かで深い納得が、そこにはありました。