ふんどし愛好家のみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。今回ふんどし関係ありそうでなさそうなお話です。なんせノーふんのお話ですので。
えぇ、そんなわけで今日は……ノーふんで、ズボンを履いておりましたわたくし多神和です。どうもどうも。
ふんどしを忘れたわけではありません。おうちでリラックスモードの日はたいていノーふんでございます。とはいえ下半身むき出しではございませんのでご安心ください。
と、まあ、そんなふうに「ふんどしとわたくし」のあいだの境目が、そのままスッ……と消えていた今日。
ちまきさんは遊びまわった後寝息まじりでまるまっており、天気はふつう、心もふつう、なにも起きていない、ただの月曜日。
でもね。
そんな「なんてことない朝」が、世界との隔たりを、音もなく溶かしていったのです。
それは「普通の朝」でした
前日のわたくしは、ナインデイクレンズ明けの回復食1日目。(9日間、野菜の汁と果物だけで過ごすプチ断食みたいなもので、回復食はその後4日くらい)
にもかかわらず、御旅屋人マーケットの打ち上げを理由に暴食という名の大洪水をおこし、「せっかく整えてたのに……」と、自己否定モードで沈んでおりました。
まあ、野菜とちょっとの卵しか食べてないとはいえ、翌日のコンディションどうなることやらとがっかりしながら眠りにつきました。
そして迎えた翌朝。
ふつうに起きて、ふつうにSRFのアプリを開いて活力強化体操をし、行法と瞑想もして、印刷しておいたレッスンをぼんやり眺めながらのクリヤー。
どこまでも、ただの月曜日。
ちまきさんはお昼寝。外はいつも通り暑い。期待も感情も、なにも起きてなかった。
ほんとうに、ただの朝だったんです。
オームが聴こえた──のではなく、オームだった

クリヤー後にまた瞑想していてふと、気づいたんです。
いろんなオームがたくさん集まってまたオームになってる。
ただ、世界が、全てオームだった。
それに気づいて目を開けたら、目の前にあるモニタもスピーカーも祭壇も、アトリエの空気も、何もかもがオームだった。
アトリエから出て移動して通った階段も、廊下も、ちまきさんの毛並みも、もちろんちまきさんそのものも、自分の身体の内側も、ぜんぶが「オーム」だった。
聴こえるのでも、感じるのでも、触れるのでもない。
在るということそのものが、オームだった。なんなら在るも無いもなかった。
すごいとも思わなかった。
驚かなかった。
驚かないことに驚きもしなかった。
あまりに自然すぎて、ただ「ここだった」としか言えなかった。
息が消え、隔たりがなくなった
呼吸が、穏やかすぎて機敏に動けませんでした。
いや、「息をしている」という感覚すらなくなって、「息」という存在そのものが溶けていたんです。
そして気がついた。
世界の隔たりが、音もなく、すっと、消えていた。
ちまきさんはちまきさんのまま、
でも、わたくしと分かたれた存在ではなくなっていた。
今まで見えない何かによって隔たりがあったということに、その隔たりがなくなってやっと気がついたんです。
驚きもしないことに驚かない

こんなすごいこと(過去のわたくしから見れば)になっているのに、すごいとも思わない。
というか、「思う」という構造そのものが、なかった。
「穏やか」と言うには「穏やかじゃない」ものが必要になってくるんだけれども。それもなく、あまりにも透明で、「感情がない」と言うにはあまりに超越していて、もう「状態」すらない。
ただ、在る……ですら、ない。
とにかく、言語化できない。書けば書くほど、ほんとうのところから遠ざかる気すらする。
それでも書いているのは、この言葉にならなさごと、もしかしたら誰かの中の静けさに触れるかもしれないって思っているから。
オームはアプリと印刷物でやってきた

こんなすごい出来事の入り口が、SRFのアプリと、印刷物だったなんて。(つまりSRFがすごいんですよ)
Zoomすら使っていない。悩み事があった時に本部の尼僧と電話でお話ができるくらいで、基本的にはレッスンを読み、ただ呼吸し、座っていただけ。
それでも、オームはそこにあった。
いや、最初から、ずっとここにあった。
もう戻らない
ちなみに、クリヤーヨガを始めたのは8月4日。あれからちょうど2週間。
本来は、8年くらいは実践して、整えて、深まって、ようやく……みたいなことを書いてあったのに。どうすればもっと早く辿り着けるかななんて考えたりもしてたけれども。
なのに、オームは段取りも順番もあっさり超えてただただ、在った。
こんなことが起きてしまったら、もう「さっきまでのわたくし」には、戻れない。
いや、そもそも「戻る場所」なんて、最初からなかった。
まとめ:隔たりがなくなった日
2025年8月18日。ノーふんでズボンを履いた、ただの月曜日。
でもその朝、世界のすべてがオームに還り、わたくしと世界のあいだの隔たりが、そっと溶けた。まるでノーふんのズボンの中のように。
それは、なにかを成し遂げた日ではなく、
ずっとそこに在ったものを、思い出しただけの日。
ありがとう、パラマハンサジ。
ありがとう、かみさま。
ありがとう、呼吸。
ありがとう、ふつうの月曜日。
そしてありがとう、ノーふん。