同じ空を見てると思ってたのに。

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むがじんがお届けする、なんでもありの無差別級ショートコラム。

同じ空を見てると思ってたのに。

何気ない会話の中で、ふと、自分が思ってた世界と相手の世界が違っていたと気づくことがあります。

それは、悲しいというより、静かな発見でした。

こないだのじゅんさんとの出来事も、まさにそんな時間でした。

ある日、じゅんさんが、仕事の買い物に出かけてくれた帰り、ふとした調子でこう言ったんです。

「パチンコ屋、ちょっと寄ってきた」

え?

思わず聞き返してしまいました。

「いや、打ってないよ。台見て帰ってきただけ」

そかそか、見てきただけ、か。

がっかり、ではないのです

たしかに、じゅんさんはずっと「行ったら癖になるから行かない」と言ってたんです。

その自己制御の強さを、わたくしは尊敬していました。

それはすごく小さなことかもしれないけれど、「この人と一緒に未来をつくっていける」と感じる、確かな材料でもあったんです。

だからといって、「一人の時間にパチンコ屋へ行った」という事実が、なにか大きな裏切りだったとか、そういうわけではないのです。

ただ、胸の奥で「え?」と鳴ったその音に、言葉が追いつかないだけでした。

ふたりで、未来を選んでいると思ってた

わたくしは、人生のあらゆる選択を「ふたりの未来」軸でしてきました。

そのことも、ちゃんと言葉でじゅんさんに伝えてきたつもりでした。

でも、じゅんさんには、それが「綺麗事」に聞こえていたそうです。

きっとそれは、じゅんさん自身が、まだその世界に立っていなかったからなのだと思います。
違う地図を開いていた。同じ場所にいるように見えて、指差していた先が少し違った。

そう気づいたとき、わたくしはまたひとつ、自分の世界を知りました。

ギーターの言葉が背中からやってきた

「行為は放棄しちゃダメ。でも、その結果に執着してもダメ。」

これは、バガヴァッド・ギーターというインドの聖典に出てくる言葉をわかりやすくしたものです。

わたくしは、「ふたりの未来という結果」にこだわっていたのかもしれません。

でもじゅんさんは、そのときのじぶんに、ただ正直であろうとした。
行為はあっても、執着はない。それはそれで、ひとつの誠実さだったのかもしれません。

まず否定から入るという癖

最近のじゅんさんは、ちょっとしたことでキレることが多くなっていました。

何か一つの原因というわけでもない様子。いや、ある意味、原因は一つなんだけれど。

じゅんさんはいつでも、何気ない会話の中でも、何かと「まず否定」から入る人でした。

「でもさ」「それってさ」「そうじゃなくて」……会話の冒頭にいつもそういう言葉があって、
わたくしはたびたび、壁にぶつかったような気持ちになっていました。

あらゆる可能性を見出したいという思いからの否定であることは、わかってました。

でも、言葉の奥にある気持ちまで受けとめた上での否定じゃないと、人はただ突き返されただけのように感じてしまうこともあります。

わたくしはじゅんさんが何を見ているのか。何を大切にしているのかを、知りたかった。

じゅんさん自身が発した言葉に対して問いかけた時でも、その言葉に対して否定がやってくる。

最近キレてばかりいたのも、たぶんその延長にあったのだと思います。

それでも一緒にいる?と問うた夜

このまま一緒にいて、ほんとうに大丈夫なんだろうか?

そう感じる日も、多々ありました。

憤りを感じたとき、見つめるべきは自分自身であり、その矛先を他者に向けたところで、何も変わらない。

だから、わたくしは伝えたんです。

「わたくしはじゅんさんをしあわせにするために生きてるんだけれど、じゅんさんがわたくしと一緒にいることでイライラしてたら、じゅんさんは全然しあわせじゃない。だから、もうわたくしと一緒にいなくてもいいよ」って。

じゅんさんはそれに対して、言葉を発することなく、夜のジョギングに出かけました。

まるで、自分の中の何かを置いてくるように。

無関心のように見える、放擲の愛

「もう一緒にいなくてもいいよ」そう言ったとき、もしかしたらわたくしの言葉は、じゅんさんには無関心のように映ったのかもしれません。

でも、それでもよかったんです。

わたくしはあのとき、ただ「自分が関わっていたいから」ではなく、「じゅんさんがほんとうにしあわせでいられるかどうか」を最優先にして差し出していたから。

ギーターの言葉にあるように、「行為は手放さない。でも結果に執着しない」というそれは、関わらないという行為の中にこそ現れる、深い愛のかたちなのかもしれません。

誰かと一緒にいること、何かをしてあげること、言葉をかけること、支えること。

それだけが愛じゃない。

関わらないという関わり方も、ときに、いちばん誠実な愛なのではないでしょうか。

そして、「一緒にいないを否定」した朝が来た

その夜、結局ちゃんと話すことはできませんでした。

でも、朝になったら「一緒にいること」を選んだじゅんさんがいました。

あの選択は、わたくしの「いなくてもいいよ」に対する「否定」だったのかもしれません。「それはイヤだ」というリアクションだったのかもしれません。

でも、それでも良かったんです。

じゅんさんが、他人を否定するのではなく、自分の中の不安や弱さを見つめることで、誰かと向き合おうとしたその姿は、これまでのじゅんさんと、ほんの少し違って見えました。

だから今、ここにいる

わたくしは今も、「ふたりの未来」という軸で生きていくと思います。

そしてその横で、じゅんさんが「今ここにいること」を選んだ朝のことを、ずっと忘れないと思います。

未来のことはまだわかりません。でも、否定ではなく、誰かとの関係から選ぶという選択のはじまりに、そっと手を添えるような気持ちで、わたくしは今ここに、います。

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多神和(たみわ・旧ほりたみわ)
「多神和」と書いて、たみわ。 一人であり、たくさんであり、かみさまたちの和を映す存在。 イラスト・漫画・張子・熊手・Reboot™・神ノ貌など、“祈り”と“観察”をもとに表現を続ける多層的クリエイター。 かみさまや犬、無機物とも会話しながら、目に見えないものを形にしている。 Reboot™では、自責の迷路から抜け出すナビゲーター。 「かわいさ×ヤバさ×祈り×爆発×余白」の世界観を軸に活動中。