おかしのおかしなはなし(4)「神戸魔法の壺プリン」

許せない食べ物

誰も悪くないんだけど許し難いこと、あるいは受け入れ難いことというのは誰にでもあると思う。僕にとってその筆頭は、ポンデリングである。

もう子供の頃の話になるが、当時からドーナツが大好きだった私は奇妙にぐにぐにした食感のドーナツと出会った。否、ドーナツというのはさっくりとした食感をレーゾンデートルの根本から切り離し難く備えたお菓子であって、そのぐにゃぐにゃたべものは決してドーナツとは認められなかった。

そんなけったいな新商品が長続きするわけはなく、次のシーズンには消えてなくなるだろうと高をくくっていた。けれども、それから10年以上経過した今に至るまであのおかしな「ドーナツ」は店頭から消え去ることもなく、人気商品としての地位を確たるものとしているようだ。

あのポンデライオンとかいうのが猛獣の爪を隠して日本文化を侵襲し続けるのを、我々はいつまで黙って見つめているつもりだろうか。(註 個人の感想です)

そして、今一つ許し難いのが、とろけるプリンというものである。

プリンの同一性

そもそもカスタードプリンというものは弾力を持ちつつも加熱によって固められたものであるはずで、固まっていなければクレームブリュレではないか。

旧い考え方と言われればそれまでだが、僕は依然、この因習より抜け出せないでいる。僕にとってプリンのイデアに最も近い存在は幼い頃より慣れ親しんだモロゾフのプリンであり、この考えが変わることは当分ないだろう。

しっかりと全体が結びついていながらも皿の上では重力によりやや高さを減ずる、取り出し方を間違えれば原型を失いかねないあの危うい儚さこそが、プリンをプリンたらしめているのではないか。

絶対価値としての美味

しかし、美味しいものは美味しい。この壺プリンもそうだった。こういう凝ったデザインのかわいい容器に入った食べ物にはがっかりしてしまうことが多い。

ガワがいいだけに中身がそれを上回るものでないと、どうしても物足りなくなってしまう。けれども、このプリンにはしっかり卵の風味を感じたし、あまり甘くないクリームもちょうどよかった。

何より、カラメルが素晴らしく、濃厚な甘みとほろ苦さのソースがプリンと絡み合ってお互いを引き立て合っていた。結局、それが何であるかということよりも、それが美味しいかどうか、更に言うならばどれほど人を幸せにしてくれるかなのかも知れないなあということで。

“A rose by any other name would smell as sweet” って言いますしね。

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