この本を読めば人生における苦しみはなくなります!ただし…
なかなか救われない日々をお過ごしのみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか?人生全力迷子のわたくし、ほりたみわです。
ですが、この本を読んだら迷子人生が終わりを告げたような気がしました。
『「ずぼら」人生論/ひろさちや』です。
「ずぼら」の対極、「まじめな」人ほど救われたいという思いが強いかと思います。えぇ、まさにわたくしがそれですけど。
そんなわたくしの迷子人生が終わりを告げられてしまった箇所については後ほど詳しくお話させていただきますが、とにかく救われない人生から解放されたい方はぜひこの本を読んでください。
あ!!!
ただし、信仰心がある人限定です。神様でも仏様でも大いなる源でも何でもいいんでしょうけど。
信仰心がない人も読んで救われる部分はあるかと思いますが、信仰心がある人とは雲泥の差!
ぜひ信仰心を持って読んでいただきたい一冊です。
信仰心があれば『「ずぼら」人生論』の142ページへワープするのもありです。秒で救われます。
とはいえ、それ以外の部分も素晴らしかったのでご紹介させてください。あ、その前にひろさちやさんについて。
ひろさちやについて
1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。同大学院人文科学研究印度哲学専攻博士課程修了。65年から85年まで、気象大学校教授を務める。
膨大で難解な仏教思想を、逆説やユーモアを駆使してやさしく説く語り口は、年齢・性別を超えて好評を博している。
著書に、『釈迦とイエス』(新潮選書)、『ひろさちやの般若心経88講』(新潮文庫)、『「狂い」のススメ』(集英社新書)、ひろさちやのあきらめ力』『阿呆のすすめ』(青春出版社)、『のんびり生きて気楽に死のう』『「いい加減」のすすめ』(PHP研究所)、『「デタラメ」思考で幸せになる!』(ヴィレッジブックス)、『悩まない』(小学館)など多数。
とにかく難しくなりがちな仏教のお話を仏教に疎い人でもわかるように説いてくれるのがひろさちやさんの魅力。
本はもちろんですが、NHKで放送されていた「100分de名著」の「正法眼蔵」の時のひろさちやさんのお話されている姿はとてもすてきでした。わあ、この人は人生において苦しみなんてないんだろうなあって思えるような笑顔と語り口。
わたくしのひろさちやさんにハマるきっけかは「100分de名著」でした。そこからいろんな本を読むように。
というわけで今回の本の内容にまいりますね。
「まじめさ」は曲者
なんだかんだ「まじめに生きること」って良しとされている世の中ですよね。でもひろさちやさんはその「まじめ」が曲者であると。
「まじめ」であることは、もちろん悪いことではありません。でもね、われわれが「まじめでなければならない」と思い込んだとき、どうも窮屈になりませんか。人間、怠けてはいけないんだ。まじめに努力せねばならない。わたしたちはそう教わり、そして自分自身にそういう生き方を強制してきました。粉骨砕身、努力に努力を重ねてきました。
(中略)
まじめな人は、世間の常識に縛られているのです。あるいは道徳というものに縛られています。いわゆる社会的規範というものですが、その重圧に喘いでいます。深海魚さながらに、世間と言う大きな水圧を受けて暮らしているのです。
そうして「まじめ」でいることによって自分を苦しめてしまう。「まじめ」ゆえに悩んでしまうのであれば、「ずぼら」に生きましょうよ、というわけです。
まじめな人ってこう言われても、なかなか「そうは言われても……」ってなっちゃいますよね。だってまじめなんだもん。
でもね、ひろさちやさんは「ずぼら」推しの手を緩めたりはしません。
つきあいたくない人とはつきあわない
なかなかこれができない人が多い中、ズバーン!と言ってくれちゃう。
「しないわけにはいかない」から、「しなくてすむ方法を捻り出す」に変えるんです。(中略)なんでもいい、思いついたうまい嘘をついておけばいいんです。
もうね、ひろさちやさんのこういうところだいすき!とはいえ、「まじめ」な人は思いついたうまい嘘なんてなかなかつけないですけどねぇ。
「つきあいたくないやつとは、つきあわない」
まず、その決意を固めることです。それが揺るがなければ、道はおのずから開けてきます。
決意を固めたら道が開ける……これは、人付き合いに限らずな法則ですけど、それをこういう使い方するひろさちやさん。ほんとすき。
「ずぼら」でいることに「まじめ」な気がしないでもないくらい。
神は自動販売機ではない
個人的にヒットした箇所その1。
「信ぜよ、さらば救われん」は「信じなさい、そうしたら救いが得られますよ」と解釈されがち。でも、そうではなく「救われる人間は必ず信じることができる」というのがこの言葉の真意という部分であると書かれているのですが、そこに書いてあった一文にハート鷲掴みにされました。
信じた結果として救われるのだとしたら、神は自動販売機になってしまいます。(中略)これじゃ、まるっきりのご利益宗教です。
これよ!!!ひろさちやさんのすごいところ。ほんとこれ!!ぎゃー!まさにそれ!!っていうのを、こんなにもわかりやすく書いてくれちゃうところ。中途半端な「ずぼら」にはこんなこと書けない!
この根本的な部分を理解しないままに神仏にすがろうとする人のなんと多いことか。逆なのよねぇ。
サトリという妖怪
禅文化を広く世界に知らしめた鈴木大拙の話も書かれていました。
山中にサトリという妖怪がいて、このサトリは人間の心が読める。きこりが山中でサトリに出会って捕まえようとすると心を読まれて捕まえることができない。きこりの知らんぷりもお見通し。
こりゃダメだとサトリのことは忘れて、木を切ることに専念すると、斧が手から放れて飛んでいってサトリに刺さって死んでしまう。
神は自動販売機ではないというお話に通じるところがありますね。悟りについてとてもわかりやすい説明でした。この箇所も個人的に鈴木大拙ブームが来ていたので嬉しかったですが、激しく救われたのはもう少し後。
「なぜ?」という問いかけは無意味!
これです!最高に救われたのは。
旧約聖書の『ヨブ記』のお話が書かれています。宗教の世界では、神や仏に対しての批判はもちろん、「なぜ?」と聞くことさえ反抗。ヨブは何一つ悪いことをしていないのに、なぜこんなにも苦しまなければならないのかと神に問いかけたヨブに神は答えます。
「おまえをつくったのはわたしだ。そのわたしに、おまえが“なぜ?”と質問する権利などない」
ぎゃー!!!!そうですよね!何もかもおつくりになられた神に対して「なぜ?」なんていう権利ないですよねというか、権利以前に全てが神のご意志ゆえ、疑問を抱くことすら無意味!
なんかね、今までかみさまと仲良しを自負していました。あれこれ日々語り合う中で、気に入らないことがあったらクレームもぶん投げてましたよわたくし。あぁ、なんという愚行。
もうこれで、完全に救われたような気がしました。気がしただけでまだ完全ではありませんでしたが。それでもそれまで無駄にヤキモキしていたことにヤキモキする必要がなくなったので、人生が相当スマートになりました。
迷ったらサイコロで決めろ!
「迷ったらやめ」の精神で生きているわたくし。「やめ」という選択ができない時にはじゃんけんとかあみだくじで決めております。
ひろさちやさんもそれと同じ話をサイコロでされていました。
悩むのは時間の無駄です。(中略)サイコロで決めるということは、仏や神に決めていただくということなんです。
決めていただいたら、そこが生きる場所なのだから、やるべきことをやればいい。
「俺の人生、仏なんかに決められてたまるか」と言うのなら、好きなだけ悩んだり、迷ったりして、時間を浪費するしかないですね。
時間を浪費するしかないですね!!!
時間を浪費しない「ずぼら」!!!もはや「ずぼら」が何なのかわからなくなってきそう。
ずぼら=信仰心?
ひろさちやさんは「ずぼら」について「過剰反応しないことがずぼらのゆえん」と書かれておりました。過剰反応しないというのはどちら側にも振れすぎないということ。
「ずぼら」という表現をしながら、神仏に心を傾けて生きる方法を説いているんです。
なので、単純に「大辞林」的な「ずぼら」(なすべきことをしなかったりしてだらしのないこと、きちんとしていないこと)で生きていこうという本ではありません。
つい「まじめ」に生きがちなあなたも、ひろさちや的「ずぼら」人生で、もっと自由でおおらかに、のんびりと、ゆったりと生きていってくださいね。