二十歳の時に宝塚の舞台に魅了されてこの世界へ飛び込んでから、かれこれ14年が経とうとしている。舞台、スポーツ、料理や企業など様々な撮影をしてきた。
すっかり宝塚からも離れた私が仕事以外で最も夢中な被写体は、花だ。
2022年2月に始めた花の撮影は、最初は写真が上手くなるためだった。光の実験台として選んだ被写体だったけれど、もはや私の人生においてなくてはならない存在になっている。
「美しい」のその先が見たかった
これが一番最初の写真。巨匠の写真からライティングの研究をしようと、アーヴィング・ペンの写真を模倣することにした。
まあそこそこ綺麗に撮れてはいるけれど、物足りなさを感じていた。
ただ美しいものを撮ればいいというものではない。「綺麗だね」という言葉では済まされない何かを映し出したかった。けれど、その時の自分には圧倒的に何かが足りなかった。
それからほぼ毎月のように花を撮り続けて様々な作品が生まれたが、中でもチューリップの写真は一番気に入っている。最近は花自身が撮るべきタイミングを教えてくれるので、私はただ言われるがままにその美しさを撮っているに過ぎない。
撮影を始めて間もなく、たまたま近所の花屋で買ったチューリップが枯れてきた姿を見て、その可愛らしさや形の面白さに気が付いた。
花との対話
花には全く詳しくないため、誰もが知っているチューリップでさえも漠然とした姿形しか知らなかった。
おしべとめしべが特徴的な形をしていることも、枯れた時にまるでベロアのような艶を放つことも、この撮影を通して初めて知ることとなった。
なにより、花と生活を共にすることでこれまでとは花への接し方が大きく変わった。私は朝起きたらまず花の水を換えて会話をするようにしている。
花びらや葉っぱ、茎を触るのも楽しい。花のために音楽をかけることもある。直接その声は聞こえなくても、きっと届いていると信じている。
名産地のチューリップは質が違う
その年の終わりに、友人であるほりたさんのパートナーで、瓦職人の親方からチューリップを頂いた。富山県砺波市の名産であるチューリップが、富山の人から届くなんて!こんなに嬉しいことはない。
家に届いた赤と黄色のチューリップは愛くるしさ満点なのは他の多くのものと変わりないだろうけど、その艶に驚いた。私が知っているチューリップじゃない。
あっという間に蕾が開いて、家の中がパッと明るくなった。
「考えるな。感じろ!」の境地に至るまで
せっかくなら咲いている時を撮って、花を贈ってくれた友人に見せてあげたかったけれど、あいにくその頃の私は創作意欲を失いつつあった。
撮りたい気持ちがなかなか湧いてこず、一番咲いている瞬間にはもう間に合わなかった。友人には悪いけど、当時の自分にはどうしようもなかった。
風邪を引けばカメラの水平も取れなくなるように、その時の体調や精神状況はダイレクトに写真に出てしまう。もはやカメラを持つ気力も無くなっていたというのは、結構な非常事態だった。
写真家もアスリートと同じ……と言うと色々な所から怒られそうだが、人々が思うほど人間は「普通」に「簡単に」手に入るものを食べて生きていたら健康ではいられないと思う。
日頃から食べるものや見るものに気をつけないければいけないと反省したが、正直に言うと咲いている時は確かに綺麗だけれど、撮りたいと思えなかったというのも事実だった。
ただ美しいから写真を撮りたくなるわけではなくて、花を見た瞬間に撮りたいと思うポイントが目に入ってきて、同時に写真のイメージが込み上げてくる。あとは頭に浮かんだその光景を再現するだけ。
そんな風に撮った写真は大体良いものが出来上がる。あれこれ頭で考えをこねくり回すよりも、「今だ!」と感じた時に、感じたままを撮って表すのが一番良い。
その「感じたまま」を出すためには、自分というものが余計なのだ。健康でないと自分の身体も心も、自分の外からやってくるものを素直に受け取ることができないから。
花との呼吸を合わせるためにも、とにかくこの後の瞬間は逃さないように自分を戒めた。
まるで別花……
そうこうしているうちに、暖かいリビングに置いていたチューリップはどんどん萎れていった。昨日まであんなに愛くるしい姿だったのに……。
黄色はかろうじて枯れていない瞬間を撮ることができたけど、赤はもう無理そう。
咲いている時の愛らしいイメージが強いだけに、重力によって花びらが下がって開いていく様子はなかなかにショッキングだ。まるでバイオハザードに出てくるクリーチャーのような姿にギョッとしたけれど、そんなリアクションをしたらチューリップが可哀想だ。
平静を装っていつものように「今日も綺麗だね」と話しかけていたけれど、内心では気が気じゃ無かった。もう撮るべき瞬間は来ないのかもしれないとすら感じていたからだ。ここから美しいと感じるものになるとは到底思えなかった。
それでも、これまで知らなかったチューリップの一面を知ることができた嬉しさもあって、気が付けば撮るべきタイミングをはかるようになっていた。
花は枯れゆく姿こそ美しい
その翌日だっただろうか、廊下に置いていたチューリップの花びらが、萎れて隣の花にもたれかかっている光景が目に入った。下になった花びらをそっと包み込むようにしたその姿を見た瞬間、「今撮らなきゃいけない!」と矢も盾もたまらず撮影のセッティングを組んだ。
その奇跡みたいな瞬間にため息が出るほど感動しながら、まさに無我夢中で撮影した。ひとしきり撮り終えると、翌日にはもうその姿は無くなっていた。
見送る儀式としての写真
やはり私が撮るべきはあの日、あの瞬間だったんだと納得した。その瞬間をキャッチ出来たのは何故だろうか?花が教えてくれたとしか思えない。
毎日声をかけたり触れたりしてコミュニケーションを取っていたけれど、確かに私たちは繋がっていたのだ。
だからこそ、枯れた時はサヨナラするのがとても辛くなる。枯れた花の写真を撮るということは、私にとっては別れの儀式にもなっているのだろう。
この儀式を通してようやく気持ちの整理がついて、撮りきった清々しさと感謝と共にお別れができる。そして花の撮影を始めた当初に見いだせなかった何かは、気がつくともうそこにあるように感じている。
私にとっては枯れてからこそが、花見頃。美しい花がその晩年にどんな姿になるのか、これからも目が離せない。