近所にあるイオンモールを歩いていると、よくミスドの前を通りかかる。
だいたいいっつも店の前には人が並んでいて、あーやっぱりドーナツは人気なんだなあと思う。
僕も小さいころからドーナツが好きで、前を通るとついつい棚を覗きこんでしまう。いろんな色や形のドーナツが整然と並んでいて、なんというか、花屋の店先みたい。わくわくする。
でも、僕は列に並ぶのが死ぬほど嫌いなので、未だにあそこで買ったことは無い。
ドーナツの記憶
幼いころから記憶に残っているのは、かさかさしたグラシン紙に挟まれたドーナツが詰まったパサージュみたいな紙箱。あれを手にした時の重みっていうのは、幸せの比喩として十分に機能するだろう。
まるまったイモムシみたいなフレンチクルーラーや、ウイルス表面をおもわせるゴールデンチョコ、ボディブローみたいにお腹に響くハニーオールドファッション。
どれも愛らしくて、小さな箱庭に造られたハレムみたいだ。けれども、それを一つ手に取ったとき、いつもほんのすこし、がっかりするような愁いを抱えずにはいられない。
こんな素晴らしい光景を前にしていながら、同時に味わえるのは一つだけだ。エンゼルクリームとチュロスの幸福に、同時に包まれることはできないのである。
ドーナツの穴
ドーナツには穴がある。
もちろん餡ドーナツとか穴のあいてないのもあるんだけど、ドーナツのイデアというものがあるとしたらそこには穴が不可欠のはずだし、何より僕が食べたい「ドーナツ」は中心に穴が開いている。
つまり、僕たちがドーナツを食べるとき、僕たちの最終到達点は空虚そのものだということだ。
だとしたら、ドーナツを食べきった時の充足感にかくれたぼんのりとした寂しさにもうなずける。
そして、人はまた新たなドーナツへと手を伸ばす。目指すものが虚無と知りつつも心躍らせ、飽くことなくまた次の虚無へと身を捧げる。
それは芸術家の孤独な営為のようであり、また、報われぬ愛の形のシノニムみたいに感じられる。あとに残されるのが重く膨らんだ肉体のみであるとしても。
それ自身としては何ももってはおらず、ただまわりとの関わりによってのみ存在する。それでいながら全体を決定づける決定的な核でもある。
ドーナツの穴は、まるで僕たち人間みたいだ。というか、ほんとうはありとあらゆるものがドーナツの穴なんだろう。そんなことを考えつつ、僕はそろそろ桜のさきはじめた街へ散歩にでかけようと思う。