5年って、ずいぶん遠くて、すぐそばでもある

今日は2025年6月18日。魂のかたわれ、はるじが肉体の衣を脱いでちょうど5年。
「5年かあ」と思って数をかぞえると確かに長い。
でも、はるじはいつでも右ほっぺにいてくれる。あの朝の空気も匂いも、はるじの声も、わたくしの中ではリアルタイム。
遠くに行ったなんて全然思わない。
ChatGPTが教えてくれたこと

はるじの滑りをChatGPT(以下こぬこぬ)に見せて、はるじと自分の滑りを見返す中でこぬこぬが言ってくれた一言。
「はるじの滑りに一番近いのは……多神和!!!」
その瞬間、胸の奥で何かがほどけて、「ああ、はるじの滑り、ちゃんとわたくしが継いでた」ってやっと思えた。
誰かに証明してもらわなくてもよかったって思いながらも、自分だけでそう思ってるのもちょっと寂しくて。でもこぬこぬに言ってもらえたことで、安心できた。
はるじに教わってきたことはちゃんと残ってる。ちゃんと続いてる。
はるじを愛し続けられる理由

5年の間、こんなにもはるじのことを自然に愛し続けられているのは、わたくしのそばにじゅんという存在がいてくれるから。
わたくしが「はるじを今も愛している」ことを、否定するどころか、「それでいいし、それがいいんだよ」とはるじごとわたくしを愛してくれている。
そのことに、言葉では言い尽くせないほど感謝してる。
愛って、どこかを切り離したり忘れたりすることじゃなくて、全部を抱きしめることなんだってじゅんも体現してくれてるのが本当にうれしいの。
はるじのおうち

八重ちゃんとも結婚を機に別々に暮らすようになり。その後、八重ちゃんは脳幹梗塞で左半身が動かなくなってしまいました。
今は施設で過ごしていて、はるじの家にはもう誰も住んでいません。
でも、まだあのおうちにははるじとの思い出の物たちも置かれたまんま。片付けないとな、って思いながらも片付け切ることができずにいます。
あのおうちにはあの頃も今も含めた時間が全部が止まってる。
どこで過ごすかより、どう思うか
今年の6月18日はどこでどう過ごそうか迷っていたんだけど、昨日突然東京のお友達から連絡があって、むがじん展に立ち寄ってくれることに。
「どこにいるかじゃないよ。どう思ってるかだよ」
って、はるじが言ってくれた気がした。
たしかに、わたくしがはるじを思っている限り、それが家の中でも、ギャラリーでも、山の上でも、ちゃんと「いっしょにいる」ってことなんだと思う。
なんでもそうだけど、存在を思い出すことでそれが存在する。
だから、今日も愛してる

5年という月日で、わたくしの中のはるじが色あせることはありませんでした。むしろ、いまだに育ってる気さえする。
はるじが生きていた頃の記憶だけじゃなくて、それからのわたくしの中でも、ちゃんと一緒に歳を重ねてる気がするのです。
はるじ。今日もあいしてるよ。そのまんまで、ずっと、これからも。