雷雨で停電になった朝、歓喜の涙が溢れた
何気ないいつもの朝。
いつもと違ったのは、夢の中でも聞こえそうな雨音と、目を閉じていても世界が光ったことがわかるほど明るくなった少し後、ごろごろという音で完全に目が覚めたことくらい。
あとは、雷雨の影響か、家の中の電気がつかなかったくらい。
じゅんさんが納屋に行ってブレーカーをあげてくれて、そんな「いつもと違う朝」はあっけなく終わり、いつも通りの朝がはじまった。
朝ごはんと、いつもの静けさ
昨日残って少しのお味噌汁に新しく具材を入れて、まるで作りたてのようなお味噌汁にして、ストーブでお餅を焼く。
じゅんさんとの朝ごはんが終わって、じゅんさんはトイレに行き、わたくしはそのままのんびりして少しあれこれ考えていた。
昨日観たビートルズと、インドのアシュラム
昨日観た『ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド』が引っかかってた。
ビートルズはインドのアシュラムで存分に瞑想をしては曲を作る日々。そうして作られたのがホワイトアルバム。
「瞑想して超越意識になる」という話を聞いて、「あぁ、あの感じは初めて体感したときは感動するよねぇ」なんて思いながら、その後そこにたどり着いてもあのときと同じ感動にはならないよね……みたいなところから、じわじわと思考していった。
かみさまって至福なんかじゃない
かみさまって至福なんかじゃない。
なんかめちゃくちゃ気持ちよかったり、体感でわかるっていうけどさ、そこでわかるかみさまってその時だけじゃん?
でもこうしてスマホぴこぴこしたり、何かにむかつきそうになってる時にもそこにかみさまはいて、そのようになさってるわけじゃん?
かみさまと共にあるって、なんか特別な瞬間とか体感とかすらないんじゃないの?
だってこんなにかみさまのこと思ってかみさまに会おうとしてるのに、体操も瞑想もクリヤーもやれないわたくしにしてるのって、かみさまじゃん。
その「やれないな」って思う瞬間にかみさまを思う、そのこと自体をわざわざやってるのもかみさまじゃん。
すべての瞬間が、かみさまの中にある
こんなの問答無用で全部かみさまの中にいるに決まってるよね。
あらゆる場面であらゆる気づかせ方をしてくれてるだけで、気づく時も気づかない時もかみさまと共にあるんだもんね。
(健やかなる時も病める時も……みたい)
今嬉しくて涙してるけど、そうじゃない時だっていつでもかみさまと共にあるんだもんね。
瞑想もクリヤーもしたくなったらすればいいし、他にやりたいことあれば他のことしていいんだもんね。
あらゆる瞬間に、かみさまが多神和を通してなさってるから。
真にそこに気づけたら、捧げることすら意識しなくて良くなるじゃんね。
だけど、気づかないで捧げないことはギーターのアルジュナが最初に言ってた行為の放擲で、気づいてから捧げなくても大丈夫になることが、クリシュナが言ってた行為の放擲になるってことだよね……。
そして、「すこーん」とわかった
そんなことをもそもそと思考していたら、クリシュナのいう「行為の放擲」と「かみさまが行為している」っていうのが、すこーん! とわかった。
今までは頭で理解していた「かみさまが行為している」ということが、細胞全てに染み渡ったというか、それすら通り越して世界中に満ちていた。
体感した、というレベルですらなかった。最初からそうだったってことを知った。
わかってない時には、これがわかるなんて「とんでもないことだし、あと何年瞑想とクリヤーとあれこれしたらわかるんだろう……」なんて気の遠い世界の話だと思ってた。
それがこんなわけのわかんない瞬間にわかるなんて。
しかも、瞑想中でもなく、食後のひとときに。
そしてインドのアシュラムでもない、日本の、ましてや神社でも仏閣でも神聖な土地とかいうわけでもなく、自宅のダイニングキッチンで。
じゅんさんがトイレから戻ってきたとき、わたくしはひとり、歓喜の涙が溢れていた。



















