高橋幸宏氏追悼
高橋幸宏氏が2022年1月11日に70歳でその人生を終え他界されました。
ご逝去を悼んで、心からお悔やみを申し上げます。
彼が日本の音楽に与えた影響は、それこそもっと身近な方々が語られるところではありますし、残念ながらお会いすることはなく直接お人柄に触れることなかったので、ここはDJとして曲を選びつつ、氏の足跡(YMOとソロ)を追いながら故人を偲びたいと思います。
(本文中は敬称略)
あまり知られてないかもですが、YMOの前の活躍が世界レベル
YMO参加前の話を少し書くと、1972年武蔵野美術大学在学中にサディステックミカバンドでデビュー。サディスティックミカバンドは当時を知る諸先輩から伝え聞きする範囲では、音作りがその頃の洋楽(ザ・ビートルズ、ピンクフロイドなどなど)!とのことですが。確かに!
Sadistic Mika Band in UK TV show “Old gley whistle test “1975 サディスティック ミカ バンド
で、この映像のメンバーがすごすぎ!
サディスティック ミカ バンド
ミカ 加藤和彦 高中正義 後藤次利 今井裕 高橋幸宏
メンバーのその後のキャリア深掘りしたいけどそれはまたどこかの機会に。
サディスティックミカバンドはそんなバンドで、そこでドラマーとして20歳そこそこの学生さんがドラムを叩いてたと考えると才能がすごすぎる……。
僕の音楽の原体験の1つ。YMO(YELLOW MAGIC ORCHETRA)
YMOの最初のコンセプトは、「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」というもので、電子楽器でチャンキー(下半身がぞわぞわする色気と僕は訳します)ディスコサウンドを作るっていうところからYMOはスタート。
年長者は細野晴臣で、1969年にサイケデリックロックの「エイプリルフール」(日本のバンドです)でデビュー。日本語をロックサウンドに載せる元祖といえる「はっぴいえんど」で(前身はヴァレンタイン・ブルーというバンドで改名してはっぴいえんど。)すでに活躍されており音楽業界のその筋では超有名人。この細野晴臣が坂本龍一と高橋幸宏を自宅に呼び、コンセプトを伝えつつおにぎりを食べつつだそうですね。そういう意味でも「握った」ということでしょう。
YMOのデビューアルバムは1978年11月。当時小学校の僕。兄が買ってきたレコードをこっそり隠れて針を落とすとスペースインベーダーの曲が流れてくるとか、ロボット声から始まる テクノポリスとか、なにこれ?え?ゲーセン?コンピューター?何?すごい!って思ったのです。
そういう人多かったんじゃないかなぁ。
理知的でありファッションセンスも
コンピュータというと、機械的にプログラミングされた音楽と思う方もいるかも。そしてこのコラムの若い読者は、ご存知ない方も多いかもですが、当時コンピュータ音楽と言っても実際のライブでは生身でドラムを叩くのです。というのは、うん。先ず観てもらいましょう。当時リズムを刻んでたマシーンというか機器はこちらです
【神回】松武秀樹さんがMoog ⅢcでYMO「BEHIND THE MASK」を実演!Moog One、Modular Vとの聴き比べ|シンセの大学Web【シンセサイザー】【DTM】
Moog Ⅲcは熱に弱く、ステージ上ではスポットライトなどで本体自体の温度があがってしまい、安定して稼働ができなかったらしく、レコードでは録音できても(今に比べたらめちゃめちゃ時間かかるけど)ライブでは演奏できず、それはそれとして高橋幸宏がドラムを生身で叩いてます。
生身なのにテクノっぽい無機質なドラムプレイ。そしてデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックのブライアンフェリーのような艶っぽいボーカルだったり、はたまた有名な赤い人民服ファッションだったり、超おしゃれなスーツ着てドラム叩いたり、ファッションデザイナーでもあるので、ステージ衣装のデザインなど、その後のミュージシャンに「音楽と舞台衣装も総合してプロデュースする」=「魅せ方」の影響を与えた人じゃないかと思うんですよね。
1983年散開。武道館。心底兄貴世代を羨ましく感じていました。
音楽的な要素のフォロワーは以前のコラムで紹介したなどなど。
1984年以降に活躍した音楽と舞台衣装も総合してプロデュースする「魅せ方」を受け継いだのは、TEI TOWA や電気グルーヴ(特に砂原良徳)、小山田圭吾、槇原敬之や高野寛、若い世代で言えば星野源などなど。
それこそ広く言えばボウイだったりBUCK-TICKだったりTM NETWORKだったりREBECCAだったり、LUNA SEA、X JAPAN及びTHE LAST ROCKSTARSのSUGIZOだったり、あるいはサカクションだったり、Perfumeだったり、はたまた初音ミクだったり、DAOKOだったり……。
魅せ方のプロデューサーが高橋幸宏。音楽アカデミックな側面(なのに一番遊びごころがある)は坂本龍一。屋台骨を支えるのが細野晴臣と今考えても奇跡的なユニットでしたね。(ファンはユキヒロさん、もしくはユキヒロ氏。教授。ホソノさんと呼んでましたけどね)
僕が高橋幸宏のソロにハマったのは・・・
YMO活動時にソロアルバムを出されてます。80年代のソロアルバムは全然後追い。リアルタイムでハマったのは90年に入ってからなんです。お恥ずかしい限り。ソロアルバムの中でもBROADCAST FROM HEAVENとA Day In The Next Life、Lifetime,Happy Time 幸福の調子は大人の純愛3部作というらしい(その括りはよくわからないけど)大人になるってこういうことなのかな?と今でいう「枯れっぷり」に憧れと共に聴いてました。
天国ー来世ー生活(現世)のテーマってある程度大人になるとじわじわと沁みてきますね。
1993年YMO再生
1983年散開。そして10年後。まさかの突然の再生。第1弾は、この3部作の「枯れた」感じでエルヴィス・プレスリーのポケットが虹でいっぱいをカバー。続くアルバム「TECHNODON」発表。シングルが歌物だし、高橋幸宏が「枯れた」ボーカルの曲が多いんだろうなと思っていたんですが、今までのファンをバッサリ、新しかったんです。何が新しいかってわかんないくらい。この時期ハウスとかアンビエントって言葉も一般的に知られ始めたころくらいかも。
一曲目ウィリアム・S・バロウズからのポエトリーリーディングから始まるBe a superman. スーパーマンになって。と女性が歌い高橋幸宏が
眠くないんだ。起きてたくないんだ。働きたくないんだ。メイクラブしたくないんだ。って返していく曲とか(枯れてる……。今になって沁みる)
80年代の機材じゃないからピコピコする音じゃなくて溶け込む感じで、そう初期ライディーンやテクノポリスなどを期待してたファンも、中期の難解なアルバムBGMやテクノデリックを期待してたファンも、後期の歌ものポップな浮気な僕らを期待してたファンもいい意味でバッサリとついて来れない作品だったと思います。いい意味で。
93年当時の今最先端ってこんな音だよ。ライブおいで。って言われているような気がして、チケットを先輩から譲っていただき再生ライブ行きました。東京ドーム。最後ファンサービスでライディーンのイントロを演奏した際に大きな歓声が出ており、生で聴けたから良かったと無理矢理自分を納得させながら帰路に着いたのを覚えてます。最後までポカーンだった。
なんだけど、訃報を聞いた日から聴き直しており、東京ドームライブからほぼ30年経過してるのに、これが新しく聴こえてビックリするのです。
聴いてみてください。
YMO – Technodon in Tokyo Dome (1993.06.10-11)
2002年SKETCH SHOW、2004年Human Audio Sponge
SKETCH SHOWは再生後、細野晴臣と高橋幸宏のエレクトロミュージックのユニット。録音機材も演奏機材も1978年のそれとは違いハードもパソコン上で動くソフトも、そしてインターネット回線もかなり進化してきて、音源が全部デジタルデータになるわけですね。そうすると世界中どこにいても制作できちゃう背景もあったりして、エレクトロミュージックが再燃したころです。
その名義で何回かライブをやりYMO時代の曲も数曲演奏されてますね。この時期東京に居て全然音楽に触れてないことをとても後悔……。
2007年YMO名義でのRYDEEN
超有名曲RYDEEN で再再生?高橋幸宏の作曲作品からスタートすることに意義があり、ここにも「魅せ方」を感じます。2007年モデル。もはやデジタルとかインターネットとかパソコンとか普通に家庭にあるよね。特別じゃないよね。その中での生活に溶け込むような編曲(アレンジ)で
空気感。審美眼と調度。ハイセンス。当時膝をたたき、さすがだなぁ!と。この曲最高です。(ビールのコマーシャルで使われてたので当時耳にした方も多いのでは?)
2023年 もうYMOは再結成できないことの哀しさ。
訃報を聴いてもうYMOが再結成できないことを強く感じました。あぁもうリアルで体験できない。だけども過去の映像を繰り返し見たり、これからも音楽を聴き続け伝え続けます。身体がなくなっても、記憶に残っていればそれは「生きている」ことだと思うんです。
忘れないように。ずっとユキヒロさんが生き続けるように。
そして空気感。審美眼と調度。ハイセンス。これだね。おとなになるって。
というわけで今回の選曲はこちらです。